●浅田彰京大経済研助教授の「『生きる力』傲慢論」
 80年代に「構造と力」などを著しニューアカデミズムの旗手として知られた浅田彰京大経済研究所助教授が毎日新聞のインタビューに応じ、「学問と知」について語りました(8月23日朝刊)。以下、その冒頭。「現在の教育改革は、暗記式の語学や数学の証明問題をどんどん落とし、会話ごっこや集合論ごっこをやらせる。それで基礎学力を骨抜きにしたかわりに、応用力や創造力が伸びたかというとまったくそんなことはない。その結果がいわゆる学力崩壊だと思います。学校などというところは、語学なら語彙と文法をきっちり暗記させればいい。臨機応変に会話する力とか、創造的に考える力とか、それは個々人が社会生活の中で身につければいい。果ては学校で「生きる力」を育てるなど、傲慢だと思います。学校ではむしろ基礎知識の詰め込みを効率的にやって、後は個々人の自由な活動の機会を増やしていくべきでしょう」「たとえば初歩的な英会話の力は上がった。しかし、文章を読み、書く能力は、劇的に落ちている。日本語でもそうなんだから、英語や他の言語は言うまでもない。いわゆる「バイリンギャル」のように、外国人に話しかけられてもブロークン・イングリッシュで答えられるのは悪いことではないけれど、それだけでは困る。数学の力も同様です。福井謙一さん(日本人初のノーベル化学賞受賞者)が教育課程審議会にいた時は「証明問題はものを考える基礎だ」といって頑張っていたのが、その後「生徒がついてこないからやめてしまえ」となった。そうなると、考える力がつかない。これは、大学生が分数の割り算もできないといってよく話題になる計算力の低下より深刻な問題です。そもそも、かつては高校を終わった段階で簡単な微分方程式が解け、それを応用して運動方程式を解くと2次曲線になることがわかって、その過程で近代科学の基礎を体得する、という理想があった。古いと言われようが、それには意味があったと思います。そういう基礎的な部分を落とし、かわりに中途半端な集合論なんかを入れているけれど、そんなものはほとんど役にたちませんからね」「結局、1968年の大学紛争以後、学校批判が妙な形で結実して、文部省が全共闘よりも過激に学校解体を進めてしまった。今の文部省は、「詰め込みはいけない、生きる力が大事だ」などと言っている。それは大昔に日教組が言っていたことですよ。ものすごい倒錯だと思います」。

 確かに、一時期「集合論」が文部省によってさかんにもてはやされた時期もありましたが、それも後退しつつあります。浅田氏の文脈に沿って言えば、「集合論ごっこですら、生徒がついていけないからやめてしまえということになった」わけで、その意味では浅田氏はまだ文部省を過大評価していることになります。したがって、文部省は「近代科学の基礎を体得させる」という理想を捨てたどころか、少しでも頭を使わなければならないような単元は実質的に(しかも多分に意識的に)切り捨てたという言い方の方がふさわしいと考えるべきなのです。しかし、「生きる力」などを学校教育の課題とするなどおこがましいという考え方はこれまで指摘する声はほとんどありませんでした。浅田氏の言うように文部省の考え方が「学校解体」に絡むものであるとすれば、「文部省の生きる力論」とは「文部省(国家)の個々人の社会生活への介入」といわざるをえなくなります。そのとき、国家は学力向上サービスを放棄し不要なお節介ばかりやく機関となるわけです。毎日新聞の記者は「教育改革は今までのところ失敗だと(考えられますか?)」と水を向けていますが、それはもう失敗どころではなく、文部省の「悪行」としか言えないものとなりましょう。
2002年問題の本質は「学校7日制か5日制かの選択」である
 2002年、公立学校が完全5日制となり、その授業時間数削減と並行させるかのように新しい学習指導要領が完全実施となることで、この問題は主として「学力問題」としてとらえられ、それであるがゆえに、私学の対応も「どうのように学力維持をはかっていくか」という課題をメインとし、その延長線上で具体策としてさまざまな案が検討されている実態があります。しかしながら、ここにきてそのようなとらえ方がほとんどまちがいであったことが明らかになりつつあります。その意味では、またしても文部省にカツガレタといわざるをえません。本紙も含め不徳のいたすところであります。いま新しい学習指導要領の実施を前に国民が危機感を募らせているのは「公立生と私立生との間に決定的な学力格差が生じてしまうこと」が見え見えだからです。こうした不公平感の除去を追い風に、文部省は私学に対して「補助金カット」をチラつかせながら「5日制」を強要しようとしています。かんたんにいうと、学力の低い方に足並みをそろえさせる措置のように見えますが、もし本当にそれだけであるのなら「5日制の私学への強要」は文部省にとってはリスクばかりが大きいものであるといわざるをえないでしょう。では、それほどのリスクを負いつつ、なぜこうも強くオドシをかけなければならないのか。その問題を解くための文部省関連の答申や報告がこの夏ふたつ提示されました。ひとつは、教育改革国民会議(江崎玲於奈座長)による7月26日の「審議の報告」。もうひとつは、保健体育審議会(井村裕夫会長)による8月9日の答申です。このうち教育改革国民会議の報告は、先月号でもとりあげたとおり「奉仕活動の強制」と「教育基本法改正」が二本柱とされていました。その後「教育基本法問題」については委員の多数意見と言えない旨が暴露され、今回は見送られる方向性が示されましたが、「奉仕活動の強制」の方はその後も曽野綾子氏が前面に出て発言を繰り返すなどプロパガンダに躍起になっています。一方、保健体育審議会答申で問題となっているのは「児童生徒が学校外の多様な活動を行なったり、体を休めたりできるよう、例えば、全国学校体育大会や都道府県学校体育大会などの試合期を除いて、学校や地域の実態に応じ土曜日や日曜日などを休養日とするなど、適切な運営に努めること」としている点です。これまで、中学校以上は、たとえ学校5日制であろうが6日制であろうが、それとは関わりなく、部活だ練習試合だといって、学校が土曜、日曜の主導権を握ってきたのが現状です。平日も授業以外に練習があり、それも不完全ながら学校の管轄下にあったとすると、少なくとも部活がらみでは「実質的には学校7日制」であったと考える方が実態に近いのです。とするならば、今回の保健体育審議会の答申は、そのような学校管轄領域を奪い取るためのものと考えられます。実際その理由のひとつとして「学校外の多様な活動を行う」こともうたわれているのです。では、その「学校外の多様な活動」とは何か。教育改革国民会議が提唱する「奉仕活動」がその一分野であることは疑うべくもありません。ここに「学校5日制」の本質が明らかになったというべきです。それは決して「授業5日制」ではなく「学校主導領域5日制」ということなのです。さて、そもそも「強制的に行なわれる奉仕活動」とは何か。それは、歴史的には「租税」の一部です。日本においても律令国家は「庸」という労役を租税として課しましたし、戦前も「強制労働」を国民に課しました。それは、物理的には「時間の収奪」というかたちをとって現れます。もし児童生徒の時間を収奪しようとするなら、現在学校が慣例的に所轄している児童生徒の「授業外時間」をいったん学校から取り上げておかねばならないでしょう。そして、公立ではもうそのルートが敷かれたということなのです。では、私学はどうするのか。そこにあるのは「学力をどうするかという問題」もさることながら「生徒に対する保護を週7日やるのか、やらないのかという問題」にいきつかざるをえないものとなります。なぜなら、週2日の保護監督権を学校が放棄するならば、それは本質的には公立学校と差がなくなるからです。しかもそこにおいては、公立よりも授業時間が長いということは決定的な公立との差を保証するものではなくなっているのです。

 とするなら、いま文部省がリスクを負担してまで私学に迫っているのは、まさしく「踏み絵」にほかなりません。「授業6日制」は従来と変わらないという意味で「学校を7日制」を担保するものであるが、「授業5日制・学校5日制」はもちろんのこと「授業5日制・学校6日」であっても「生徒に対する強制力のない6日制」であるならば、ほとんど「5日制」と変わらない、と文部省は見ているのではないでしょうか。文部省が今年4月段階で全国の私立学校に調査したところによると、5日制を「現在実施」または「2002年度からの実施予定」の割合は、幼稚園49.7%、小学校54.7%、中学校33.5%、高校43.8%となっています。状況の進展が鈍いとみた文部省は、これを受けて8月10日に、所管する私学を指導するよう求める文書を都道府県知事に送付しています。これが「強要」といわずして、何というべきなのでしょう。
 *博文進学ゼミ(板橋区板橋4-6-1) マンスリーガイド12年9月号
●都立日比谷高校が独自入試問題による入試の実施へ
 学校教育法は地方公共団体が設置する学校の管理主体を自治体ごとの教育委員会としています。たとえば都立高校の管理者は東京都の教育委員会となっており、施行規則の定めによって都立高校入試は教育委員会が行なうことになっています。ところが、かねてより石原都知事は「都立高校の多様化」をうちだしており、これを受けて都教育委員会が文部省と協議しました。その結果「都教委が責任を負うならば入試問題の各高校の単独実施を認めてもよい」というかたちになったらしく、都教委は7月末に自校作成を可とする決定をくだし、希望を募ったところ、日比谷高校が英数国に限って独自で作成する旨申し出たという流れがあったようです。そして、このことについて都教委は「進学校復活と受け取られることのないよう、偏差値重視で受験者の負担になるようなことのないように指導する」とコメントしているようです(朝日新聞の記事による)。さて、この間の事情が新聞報道の通りかどうかは、最終的に日比谷高校がどのような入試問題を出題するかを見た上でなければ判断できません。そもそも、入試問題が一律であるという学校教育法施行規則の定めは高校ごとの学力格差が存在しないことを前提にしているわけですが、現実の公立高校改革は、普通科高校、総合コース制高校、専門学科高校という3分類を志向して既に動きはじめており、その点からも同レベルの入試問題一律実施とのギャップが出はじめていたのは否めません。しかしながら、独自の入試問題を作成することと「こういう生徒を受け入れたい」という高校のメッセージとは不即不離の関係にあり、「高校はどこも同じだ」という公立高校設置の趣旨を正面から揺さぶることは必死です。また、日比谷高校としても、独自作成する入試問題が衆目を集めることは承知の上の決定でしょうから、威信をかけたものになることは疑いありません。もしそれがお粗末なものであるならば、それこそ都立高校全体の威信の失墜につながることでしょう。ならばそういう、私立高校と同じ土俵に乗ってしまうような(ちなみに、私立高校は偏差値50〜60の中堅校でも都立の入試問題とは比較にならないほどの入試問題を出題しています)リスクにはつきあいたくないというのが文部省の考えなのではないでしょうか。文部省に見放された格好になった都教委が日比谷高校を説得したと考えた方がリアリティーがあります。もっとも、日比谷高校の河上一雄校長は、東京都公立高校長協会長として「例えば、土日に学校施設を公開し、PTAがお金を集めて受験講座を主催してもいいではないですか。そういうことをしないと私立に負けてしまいます」(サンケイ「じゅくーる」)と発言し、本気で私立と同じ土俵に立つ覚悟を決めているようでもあります。また、新学習指導要領をも公然と批判しており、日比谷は本当によくなるかもしれません。ですが、来年度は日比谷高校の入試に関しては、都立志望組は模様眺めの傾向が強まるでしょう。ついでながら、日比谷高校は西や小石川などとともに来年度から、ペーパーテストと調査書の比重を「7:3」とします。
●週刊文春に載った「文部省現役官僚が『ゆとり教育』徹底批判」という記事
 週刊文春9月14日号は、現役の文部官僚が『「ゆとり教育」亡国論』(PHP研究所)という本を著したことを取り上げ、それは内部からの「徹底批判」である、とする記事を掲載しました。この本の著者は大森不二雄氏で、現「在米国日本大使館参事官」という肩書の人。つまり、文部官僚ながら現在は外務省に出向中であるらしく、その意味では「内部批判」とは言えない面もあります。さて、週刊文春によると、文部省の通説は「受験勉強のための勉強のしすぎが教育荒廃の原因である」ということであるらしいのですが、大森氏は1998年から2年間、岐阜県教育委員会に管理部長として出向した際、49.6%もの高校生が家庭で勉強をほとんどしていない「現実」におどろき、文部省の「通説」に疑問を抱くようになったとの筋書きで記事を進めています。そして、大森氏に取材し「学校は何のために行く所で、自分で何を目指して頑張るかが見失われた、『目標喪失』と『弛緩状態』によるもの(ところ?)としか思えませんでした。『学校は勉強をする所』という、当たり前の事実があいまいにされた結果ではないでしょうか」というコメントをとりつけています。まったくマンガそのものです。文部官僚を15年くらいはやってきているはずの人間が、日本の子どもたちが全然勉強しない状態にあることを全く知らず、地方に出向してはじめて気づいたというのもひどすぎる話ですし、それが本当だとしたら、「ゆとり教育」など「現実」を知らない官僚によるママゴトアソビでしかないということになってしまうからです。こういう文部官僚の低レベルさを明らかにした点でこの記事の意味はありましたが、それはまさにブラックユーモアにすぎないものであると信じたいと思います。でなけば、「ゆとり教育亡国論」ではなく「文部省亡国論」というタイトルがふさわしいからです。ともあれ、今後最も注目すべきは、大森氏の「去就」であります。